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前橋地方裁判所 昭和33年(わ)363号 判決 1959年10月26日

被告人 鳥山邦允

昭二・一〇・一生 竹材業

主文

被告人を懲役一三年に処する。

未決勾留日数中二五〇日を右本刑に算入する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、父九八郎母こまの二男として生まれ、高等小学校二年中退後、家業である農業に従事したり、東京へ出て製本工をしたりしていたが、終戦後竹材商伯父鳥山高十郎のもとで竹切りの手伝等をしているうち、賃金のことで仲違いをして昭和二七年頃からは独立して竹材商を始め、そのかたわら、時々長野県、兵庫県方面や土工やとび職として出稼ぎに出たこともあつたけれども、主として群馬県吾妻郡一帯の山地を歩き廻つて竹の仲買に従事していた者であるところ

第一  昭和三三年八月二九日朝いつものように自転車に乗り、竹切用のなたを持つて同郡原町方面に竹買いに出かけ夕刻まで心当りを数個所廻つたが思うように手に入らず、原町発電所附近の駄菓子屋で休んだ。そのうちに、川原湯温泉(同郡長野原町川原湯所在)に行つて入浴しようと思い付き、沼田長野原線二級国道を西進し、途中吾妻渓谷にある「やえん茶屋」に立ち寄り、そば二杯清酒一杯を飲食した後、午後七時四、五〇分頃川原湯方面に向つた。しかし、間もなく小雨が降り出したので、入浴を断念して引き返し、同国道八場大橋北詰附近まで来たところ、かつて二、三度会つて面識のある富沢もよ(乾物等の行商、当時五七年)と出会い、同女に誘われるまま午後八時半頃同郡長野原町大字川原畑一〇三六番地なる同女方に到り、炉端に腰をおろして世間話や商売の話をしながら同女から勧められるまま焼酎を飯茶わんで二杯飲んだが、そのうちにその場に横になつたまま眠つてしまつた。しばらくして目を覚ますと、いつの間にか同女方奥八畳間に同女と同衾しているのに気付き、帰宅しようとしたところ、ワイシャツのポケットに入れておいた筈の所持金約四、一〇〇円がなく、同女の枕許に置いてあるのを認めたので、同女を呼び起して持ち帰ろうとすると、同女が突然「あんたは酔つたいきおいでむりやり関係したからその代りに貰つておく。」と言いはり、被告人の弁解にとり合わないのみかかえつて被告人に背を向けて寝てしまう始末であつたので、生来極めて短気な被告人は同女の態度にいたく憤激し、やにわに傍らにあつたなたで同女の枕元からその頭部をきりつけ、起き上ろうとして同女が掛ぶとんをかぶつたまま前方にのめるように俯伏せとなるや、顔見知りの間柄であつたため右犯行の発覚をおそれとつさに同女を殺害しようと決意し、更に前記なたを振つて同女の後頭部を続けざまに数回きりつけ、よつて同夜午後一一時過ぎ頃同所において後頭部割創及びこれに基く脳挫滅により死亡させて同女を殺害した。

第二、同年九月二八日頃山林の売買にかこつけて金員を騙取しようと考え、薪炭商大渕豊司を連れて渋川市金井二六七五の一番地に到り、同所にある松村逸治所有の山林を右大渕に示した上「これは石田治平所有の山林であるが、一二万円で買受方斡旋してやる。」旨虚構の事実を申し向け、右大渕をして買受方承諾させた上更に同月三〇日頃前橋市琴平町一一三六番地の右大渕方において、同人に対し予じめ自ら勝手に作成した石田治平名義の金一二万円の受領証(昭和三四年領第一一号の二六)を示し「右山林の代金としてこのように代金一二万円を立て替えておいたから支払つて貰いたい。」旨虚偽の事実を申し向け、同人をして真実被告人が右山林の代金として金一二万円を立て替えてくれたものと誤信させ、即時同所において同人から現金一二万円の交付を受けてこれを騙取した。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法第一九九条に、同第二の所為は同法等二四六条第一項に各該当するところ、判示第一の罪については所定刑中有期懲役刑を選択し、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条第一〇条により重い殺人罪の刑に同法第一四条の制限に従つて加重した刑期の範囲内において被告人を懲役一三年に処する。なお、未決勾留日数の算入につき同法第二一条を、訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用する。

(判示第一の殺人についての主な争点に対する判断)

本件公訴事実のうち、殺人の点(以下単に本件又は本件公訴事実という。)について、被告人及び弁護人は全面的にこれを争うので、以下主要な争点についてその判断の概要を示すこととする。

第一、被害者の死亡原因、日時等について。

司法警察員の検証調書(甲一五)、鑑定人正木新樹作成の鑑定書(甲一四)によれば、被害者は本件死体発見当時自宅の寝室八畳間において掛ぶとんをかぶつたまま俯伏せになつて死亡していたのであるが、その頭頂部から後頭部にかけて合計六個の割創、切創が存在し、そのうち最も大きい創傷は長さ一九センチ、深さ五センチにも及ぶ重傷で、その死因は前記割創及びこれに基く脳挫滅であつて、他に死因とみるべき損傷、病変がないから、本件被害者は何者かによつて殺害されたことが明らかである。そして前掲鑑定書によると、本件解剖時(昭和三三年八月三一日午前一一時三〇分)における死体の死後経過時間はおよそ一日ないし一日半位であるとし、同鑑定人正木新樹の当公廷における被害者の胃の内容物の消化状況からみて食後約三、四時間以内に死亡したという供述、これに前掲検証調書によつて認められる被害者方の戸締、寝具、ランプ等の状況をあわせ考えると、被害者は同月二九日の夕食後三、四時間以内、すなわち遅くとも同日午後一一時三〇分頃までに死亡したものと推定するのが相当である。

第二、右犯行が被告人の所為かどうかについて。

この点につき、被告人は、長野原警察署長に対する答申書一通(甲一三八)、同上申書九通(甲一三九から同一四七まで)、司法警察員に対する供述調書二〇通(甲一四八から同一六七まで)検察官に対する供述調書三通(甲一六八から同一七〇まで)において、右犯行が自己の所為であることを詳細に自白していた(以下、自白した右調書等を総称するときは、単に本件自白又は本件自白調書という。)。当公廷においても第一回公判においては殺意のみを否認したに止つていたのに、第二回公判以降本件公訴事実を否認するに至り、本件自白は捜査官の強制誘導によるものであるとか或は自ら創作した虚偽の自白であると述べ、弁護人もまた本件自白の任意性、真実性を争うに至つた。而して一応右本件自白を除いて各証拠を検討してみると、後述のように、被告人が昭和三三年(以下年号を省略するものはすべて昭和三三年の意である。)八月二九日午後七時四、五〇分頃被害者方東方約一、六キロの地点にある「やえん茶屋」から自転車に乗つて国道を被害者方方面に向つたこと、及び被害者方前を走る旧道上の同女方附近に八月三〇日夜被告人が当時乗り廻していた丸石号自転車と極めて類似するタイヤの輪跡が発見されたことは明らかであるが、他に犯行目撃者、現場に残された指紋、遺留品、兇器等直接被告人を犯人と断定するに足りる客観的な資料はないのである。

従つて本件公訴事実の成否は、専ら被告人の右自白に任意性及び真実性があるかどうか、あるとすれば右自白を補強すべき証拠の有無如何にかかつている。

一、自白の任意性について

被告人及び弁護人は、当公廷において、被告人が本件自白をなした事情をおおむね次のように述べている。すなわち、警察における取調は一〇月二〇日頃から始められたが、これはその後一週間以上にもわたつて続行され、時に食事時間になつてもやめないことがあり、入浴や歯磨用品の使用等が制限され、その上数名の警察官が交互に被告人に対し「お前が犯人だ」ときめつけるような態度で誘導的に追及を続ける等種々の圧迫が加えられたため、遂にこれにたえかね、本件自白をなすに至つたのである(検察官の面前においても、既に罪を負う覚悟をしていたし、司法警察員に対する供述調書を読み聞かせられて取り調べられたため、右調書にそう供述をしたものである。)。従つて本件自白は捜査官の強制誘導によるものであつて任意性を欠く疑いがあるというのである。

証人福田宗枝、同吉田政次郎、同後藤篤郎の当公廷における各供述及び記録に編綴してある詐欺罪に関する逮捕状、勾留状の各記載を総合すると、被告人は一〇月一四日判示第二の詐欺罪の嫌疑で逮捕された上、同月一六日前橋警察署留置場に勾留され、同日頃から二〇日頃までの間詐欺罪について取調を受けた。ところが被告人に対しては、既に一〇月上旬から本件殺人につき一応の嫌疑がかかつていたため、長野原警察署警部補後藤篤郎の外群馬県警察本部から本件殺人事件の捜査の応援を命ぜられた警部補吉田政次郎、巡査部長福田宗枝等が同月二一日頃から前橋警察署分室内の宿直室において交替で被告人に対し詐欺罪の動機等を聴取するかたわら、八月末頃の被告人の足取り、立廻先等の取調を始めた。そして、まだ殺人事件に関する具体的な質問に入らないうちに被告人は同月二六日午後三時頃突如取調中の後藤警部補に対し「多勢いるところでは話せないことがある。一人になつて貰いたい。」と述べたこと、そこで福田巡査部長一人になると、被告人は「私は大罪を犯している。もよさんを殺したのは私です、思い出すだけでも恐しい、口では言えないから紙をくれ。」と言い出し、同部長がその事情を聞きただすと、八月二九日の行動、本件殺人のいきさつ等について語り始めたので、被告人の言うままにこれをメモにとつたこと、そして約三〇分後他の取調官が部屋に入ると、被告人は「紙をくれれば事実を書く。」というので紙を与えたところ、右供述と同趣旨の上申書一通(甲一三八)を自ら作成したこと、その直後後藤警部補は、殺人の動機、殺害の手段方法、犯行後の行動について被告人の述べるところを録取して一〇月二六日付の自供調書(甲一四八)を作成したこと、これまでの取調中に取調官がことさらに用便等を制限したりしたことはないこと、被告人は取調中気にくわぬことを質問されると反撥的に恐り出す癖があつたが、おおむね素直で自ら進んで述べるという態度であつたことを認めることができ、右認定に反するような資料はない。

これに加えて、被告人は一〇月二八日に至り自白後の心境を詠んだ歌、被害者の冥福を祈る言葉等を自書した答申書(甲一四二)を提出していて、以上のようないきさつによつて作成された前掲上申書類を検討してみると、八月二九日被害者と会つた時の状況、被害者との会話の内容、当夜の所持品、殺害の動機、その手段方法、被害者方居宅内外の構造、犯行後の被告人の行動等については基本的なあらすじを簡明に述べており、しかもその供述の骨子は一一月二六日検察官の取調が済むまで、前掲答申書、司法警察員検察官に対する各供述調書全般を通じて終始一貫しているのである。しかも、前掲上申書に始まつた本件自白は詳細を極め、後述する如く、特に殺害の手段方法において被害者の受けた創傷の状態に正確に符合し、検察官提出の書証の大部分は、被告人の自白後その裏付けのために収集されたと思われること等を考え合わせると、被告人の本件自白がその全般を通じて取調官の強制脅迫に基くとか、不当な誘導によつてなされたという疑があるとは到底認めがたい。

二、自白の真実性について

次に、被告人は当公廷において「本件自白は被告人が法廷をもませてやろうという考えのもとに、取調官の暗示、新聞記事、風評等に自分の推理を加えて創作したものに過ぎない。」と述べ、弁護人も本件自白は他の証拠による裏付けが乏しい上に、その内容には極めて不自然な点が多く、従つて真実性がないと主張する。そこで本件自白の主要な部分につき、他の証拠と対比しながらその真実性を検討する。

(一) 本件自白調書中の、被告人が八月二九日午前七時三〇分頃肩書自宅を出て角田健作方など数個所に立ち寄り、午後七時三〇分頃吾妻郡吾妻町大字松谷地内国道沿いの「やえん茶屋」においてそば二杯、冷酒一杯を飲食した上西に向つたこと及び当日被告人が新しい自転車(なたと赤かばんを荷台につけていた。)に乗り、カーキ色の乗馬ズボン、白ワイシャツ、鳥打帽、地下足袋を着用していたという点は、角田弥一郎(甲五二)、飯塚すみ(甲五五)、本多昭治(甲五七、五八)、町田桂三(甲六一)、町田福二郎(甲六二)、林再市(甲六四、六五)、小林良子(甲七四)、浜名ちい(甲七二)の司法警察職員に対する供述調書、角田弥一郎(甲五三)、飯塚すみ(甲五六)、本多昭治(甲五九)、町田福二郎(甲六三)、林再市(甲六六、六七)、小林良子(甲七五)の各検察官に対する供述調書及び図面(甲一七一)により明らかであり、被告人も当公廷において認めるところである。特に被告人は、一〇月二九日付(甲一五一)、一一月一二付(甲一五七)司法警察員に対する各供述調書及び検察官に対する一一月一九日付供述調書(甲一六八)において、八月二九日出会つた関係者との会話の内容、立寄先、その順序経路時刻或は飲食物の品目等を逐一詳細に述べておるが、それらは右関係者等の供述と完全に符合しているのであつて、このことは、被告人が当日の行動に関して非常に正確な記憶を有し、従つてその供述の信用性の高いことを示すものである。

(二) 次に、被告人は当夜の天候について自白調書中で「午後八時前「やえん茶屋」を出た頃吾妻渓谷は濃霧に包まれており、川原湯駅手前の清水林業薪工場附近まで来たとき小雨が降つて来た。そして最後に午後一一時過ぎ被害者宅を出た頃も小雨が降つており、帰宅途上も小雨が降り続き、ところどころ路上に水溜りがあつた。」と述べている。而して、小林良子の司法巡査に対する供述調書(甲七四)によると、当夜午後七時頃から同八時頃までの間の吾妻渓谷地内の天候は、今にも雨が降り出しそうな空模様であつたこと、「気象観測結果について」と題する電話箋(甲一一七)及び「報告書と題する書面(甲一一八)によると、川原湯から約一三キロ離れた中之条町においては午後七時半頃から雨が降り出し、翌三〇日午前九時頃までの間に一八、七ミリという相当量の降雨があつたこと、また浅白タクシー川原湯営業所運転手山口竹男(甲一二三)、国鉄長野原線川原湯駅助役本多春美(甲一二二)、川原湯附近居住者の豊田勘三郎(甲一一九)、野口てるみ(甲一二〇)、須田作一(甲一二一)、萩原要之助(甲一二四)、黒岩やす子(甲一二五)の各司法警察職員に対する供述調書を綜合すると、当夜川原湯駅附近は、午後七時半頃から霧雨模様となり、午後九時過頃には本降りとなつたが、午後一〇時近くには再び小降りとなり、午後一二時を過ぎてから又本降りとなつたことを認めることができ、被告人の前記供述と一致する。

(三) ところで、被告人は被害者宅の位置構造家屋内外の状況等について、本件自白で「被害者宅は旧通(八場大橋北詰附近から川原畑部落に向う旧道)の左側(南側)にあり、その旧道を更に進むと、北側に竹樋のある沢が南側に柿の木がそれぞれあり、もつと進むと大石がある。被害者宅は先ず表入口の雨戸を開けて入ると、土間があり、これに続いて囲炉裏のある座敷がある。その囲炉裏の上にほやのある大きなランプが吊してあり(被害者方には電気がない。)座敷の南側に戸棚があつた。障子戸を境に奥に畳の座敷があり、同室内には東側にタンスが二組並んでおり(被告人は犯行後物盗りを偽装するためそのうち一つのタンスの抽斗二つ三つをひきだして中の着物等を持ち上げておいた。)、その北側にふとんらしい物が重ねてあつた。同室の南側には障子戸(これはそのうち一枚に体を突き当てて骨まで折り、その障子は逃げ出す際には内側に少し外れていた。)及び雨戸(これは一戸二、三寸程開けたままで逃げ出した。)があり、その外側にはぬれえんがある。当夜被害者は奥座敷のふとんに頭を南側にして寝ており、その枕許には小机及びほやのない小ランプが、室内にはスーツケースやボストンバック等が置いてあつた。土間はきれいに掃除され犬がいた。居宅南西部(裏側)の土間らしい所の中の地覆の上に叺が置いてあり、居宅裏側には古材が並べてあつた。居宅西側は桑畑、居宅北側には山羊小屋及びボヤ小屋がある。」と述べている。以上の事実は、受命裁判官の検証調書二通、前掲司法警察員の検証調書(甲一五)、証人原崎きぬの当公廷における供述、証人中島巴、金子友平の各証人尋問調書、中島巴(甲三三)、赤石竹代(甲三四)、黒石順平(甲三五)、豊田ヨシ(甲二八)、富沢きぬ(甲二九)、中島みね(甲三〇)野口佐平(甲三一)、野口万作(甲三二)の各司法警察職員に対する供述調書によつて認められる被害者方居宅内外及びその附近の状況と詳細の点にわたり符合している(但し、戸棚が囲炉裏の間の南側ではなく、東北部にある点、囲炉裏の間と奥座敷との間は障子戸ではなく、障子戸に似たすり硝子戸である点、奥座敷にはタンスが一組しかなく、他は茶ダンス若しくはつづらであつた。)。特に被告人はこれまでに右旧道を通つたことがあるけれども、被害者居宅内は勿論その裏側即ち右居宅と断崖との狭い空地には一度も入つた経験がないのに、一〇月二七日付答申書(甲一三九)、同月二九日付答申書(甲一四一)添付の図面において、被害者居宅の模様、内外の状況を極めて正確に表現しており、とりわけ大ランプ小ランプの形状、裏側ぬれえんの手すりの状態、小机(鏡のない古鏡台である。)、ふとんの位置、ボストンバックの存在等に関する自白は、本件自白の真実性を裏書きするに足るものである。

(四) 「やえん茶屋」を出てからの行動について、被告人は本件自白においておおむね次のように述べる。すなわち「午後八時近く「やえん茶屋」を出て入浴するため川原湯泉に向つて自転車に乗つて出発し、国道を川原湯駅手前の薪工場附近まで来ると小雨が降り出したので入浴を断念して引き返し、八場大橋を渡つて国道から旧道への分岐点附近まで来た。すると、旧道から三〇才位の女の着る柄の簡単服を着た五〇才位の女(被害者)が手拭様のものを手に下げて来るのに出合い、「誰だい。」と声をかけられたので、「田中あきさんの所へ来る竹屋だ。」と答えて通り過ぎようとすると、「寄つてお茶でも飲んで行きなさい、雨具を貸してやる。」等と言われた。そこで被害者の案内で旧道を西進し、家の前のボヤ小屋の所へ自転車を置き、被害者に続いて被害者宅に入り、地下足袋のまま炉端に腰をおろすと、被害者が一升びんから焼酎を飯茶わんに七、八分目位二杯出してくれたので、それをぐいと飲んだ。その頃被害者は炉端でとうもろこしを食べながら「竹屋はもうかるか金を持つているか。」等と尋ねたので、被告人は炉端に横になつたまま「もうからぬ、金は今四、〇〇〇円位しか持つていない。」と答えた。その後被害者が「遅くなつたら泊つて行けばよい。」等と言つていたが、被告人は間もなくその場で眠つてしまつた。」と。以上の供述を他の証拠と対比してみる。先ず小林良子の司法巡査に対する供述調書(甲七四)及び検察官に対する供述調書(甲七五)によると、被告人が午後七時四、五〇分頃前記のような服装で「やえん茶屋」を出て自転車に乗つて国道を川原湯方面に向つたことが認められ、また証人中島巴、金子友平の証人尋問調書、前掲司法警察員の検証調書(甲一五)、豊田勘三郎の司法巡査に対する供述調書(甲一一九)を綜合すると、金子友平は一〇年以前から被害者と特別の関係を持ち、本件発生前頃は特に用件のある場合を除いておおむね一日おき位に被害者宅に泊つていたこと、同人が被害者宅に来る時刻は午後七時頃であること、同人が本件発生前最後に被害者方に赴いたのは八月二七日であつて八月二九日には行つていないこと、被害者方には入浴設備がないので被害者は夜割合遅く白いような布袋を下げて川原湯温泉まで入浴に赴くことが屡々あつたこと、被害者方から川原湯温泉に行くには被害者方から東進し被告人の言う分岐点から八場大橋を渡るのが近道であることを各認めることができる。次に、前掲司法警察員の検証調書(甲一五)、正木新樹作成の鑑定書(甲一四)、証人原崎きぬの当公廷における供述、証人中島巴の証人尋問調書、富沢きぬの司法警察員に対する供述調書(甲七六)を綜合すると、被害者は殺害された当時娘の着古したワンピース(簡単服)を着用していたこと、被害者方には常時金子友平の飲む焼酌一升びん入が用意してあり八月三一日の本件検証時には一升びんに四合程残つていたこと、囲炉裏内にとうもろこしの殻が二本並べてあり、死体解剖の結果被害者の胃の中には未消化のとうもろこしがあつたことが認められる。これらの諸点はいずれも前同様被告人の前記自白を裏付けるものである。

(五) 更に、被告人は本件犯行に及んだいきさつについて、次のように自白した。「しばらくたつて目を覚ますといつの間にか奥座敷のふとんに頭を南にして被害者と同衾(被害者の西側)しているのに気付いた。帰宅しようと思い、ワイシャツのポケットに手をやると、所持していた現金四、一〇〇円余りがないので枕元の小ランプの明りで見廻わすと、被害者の枕元の畳の上に現金がたたんで置いてあつた。そこで被害者を呼び起し「この金は私のだろう。」と確かめてその現金を持つて帰宅しようとすると、被害者は「あんたは酔つた勢でむりやり関係したからこの金は貰つておく。」と言い出し、被告人が極力これを否定しても一向聞き入れず、かえつて被告人に背を向けて寝てしまう(東側を向いたことになる)始末であつた。被告人は、その枕元でどうしようかと考えているうちに、物慾に駆られた被害者の態度に逆上し、枕元にあつた被告人のなたが目につくや、これを手にしていきなり東向に寝ていた被害者の頭部に一撃を加え、更に被害者がうつ伏せになつて起き上るようにしてふとんをかぶつたまま前のめりに俯伏せになると、被害者の頭の東側に廻つて続けざまに五、六回その頭部めがけ滅茶苦茶に斬りつけた。」と。そこで鑑定人正木新樹作成の鑑定書(甲一四)及び同人の当公廷における供述によると、被害者の頭部には、頭頂部から後頭部にかけて、左から右に順次(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)合計六個の割創切創があり、(イ)の切創はその切口からみて被害者の左側から斜めに斬りつけられたもの、(ヘ)の切創は表皮剥離を伴う楕円形のもので、刃物がかすつたためにできたもの、(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)の割創はいずれも後頭部の方から前頭部に向け切りつけられたと思われる深い傷で、そのうち(ホ)は最も大きく長さ一九センチ、深さ五センチに達するもので、その形状からみて少くとも二回以上の打撃によつて生じたものであること、(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)の割創は被害者が俯伏せの状態で斬りつけられたものであること、更に被害者の左肩から左腕上部にかけて(ト)(チ)の二個の切創あり、その切口、方向からみて体の左方から斬りつけられたものであることを認めることができる。更に警察技師松土孝作成の「布団の切口による兇器の推定について」と題する書面(甲一六)及び前掲司法警察員の検証調書(甲一五)によると、被害者が受傷当時かぶつていた掛ぶとんにはABCDEFG合計七個の切口があり、そのうちDEFGのふとんのふちに接続して存する各切口は、それぞれ前記割創(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)の部位に全く符合し、しかも該ふとんには右切口部分から襟にかけて多量の血痕のあることが認められる。以上の事実を彼此総合して考えてみると、被告人が自白するように、前記(イ)(ト)(チ)の創傷は被害者が左肩を上にして寝ている状態において受けたもの、(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)の創傷は被害者が俯伏せの姿勢でしかも掛布団のDEFGの各切口部分がその後頭部附近を覆う状況において受傷したものと認め得られる(司法警察員が検証した当時においては右切口部分は被害者の後頭部附近にはなかつたのであるが、これは証人金子友平の証人尋問証書、証人原崎きぬの当公廷における供述に照らし、事件発生後第一発見者である同人等が掛ぶとんの位置を若干変えたことによるものと推定される。)。してみると、殺害の方法に関する被告人の本件自白は、被害者の創傷の部位程度から推定される客観的状況と正確に符合するものとして特にその真実性を判定するについて重要なものである。

また、本件犯行に使用した兇器の種類は、前掲正木新樹作成の鑑定書(甲一四)、司法警察員の検証調書(甲一五)、「布団の切口による兇器の推定について」と題する書面(甲一六)にも指摘されている通り、被害者の創傷の状態ふとんの切口の状況からみて相当重量のある鋭利な刃物例えばなたとかおののようなものと推定され、押収してあるなた(昭和三四年領第一一号の六)類似のなたを使用することによつて充分前記のような創傷を生じ得るものであり、従つて兇器に関する被告人の自白は右に認定した客観的事情と何等矛盾するものではない。本件兇器については、被告人は常時携帯していたなたを八月二九日にも所持していたのであるが、その自白によれば「同夜は腰に下げて被害者方に赴き犯行後吾妻渓谷において右犯行に使用したなたを着用のワイシャツを以て包み吾妻渓谷に投棄した。」というのであつて被告人の自白に基き警察官は鋭意捜索に努めたけれども遂に発見するに至らなかつたが、弁護人主張の如き兇器が発見されざりし一事をもつて直ちに兇器に関する被告人の自白の真実性を否定するわけにはゆかない。

次に、本件犯行の動機について考えてみる。弁護人は、被告人が被害者の如き老女から現金を取り上げることは容易であり、また被害者との間に金の奪い合いをしたとか、組み打ちをしたと認むべき状況はないから被告人の自白するような動機を以てしては、本件犯行の挙に出たとするには、極めて薄弱であつて、被告人の自白が真実でないことを物語るものであると主張する。なるほど、被告人の自白するような事情だけから本件のような残虐極まる犯行に及ぶことは例の少いことであろう。しかし、殺人の動機は他の如何なる犯罪にもみられない程千差万別であつて、利慾、性慾、嫉妬、憎悪、怨恨、激情、名誉、確信、困窮、幻覚、妄想等多種多様にわたり、これらの動機に基く犯行への意思決定も、当該行為者の生活歴、心身の恒常的欠陥又は一時的異常、性格の偏倚、知能の程度、年令、性別、職業、環境、経済状態等の諸因子及び犯行の場における具体的条件によつて大きく左右されるものであることは、犯罪心理学の教えるところである。そこで被告人についてこれをみるに、被告人は幼少のころから短気で、長じても気に入らぬことがあるとすぐ興奮して親兄弟を殴つたり、器物を投げつけたりしたこと、これまで土工、とび職等の職業経歴を有すること、橋爪小きんと同棲中はきちようめんな性格を持つ反面我儘なところがあり、しかもさ細なことにも意にそわぬと忽ち激昂して前後のみさかいもなく同女を殴る蹴るの乱暴を働くことが屡々であつて、ささいなことにも非常に興奮しやすく、兇暴な性格を有する者であることは、鳥山高重郎(甲一一一)、橋爪小きん(甲七七)、田中あき(甲一〇一)及び被告人の昭和三三年一一月七日付(甲一五五)各司法警察職員に対する供述調書、証人後藤篤郎の当公廷における供述によつて明らかであり、又被告人の当公廷における供述態度によつても充分これを窮い知ることができる。以上のような性格の偏倚に加えて、被告人は右橋爪小きんとの同棲生活に破れ、これは同女を含む女性の物慾の深さに起因するものとして快からざるものがあつた上に、当時竹仲買が思うようにはかどらないため焦躁感、不安感に駆られていたと当公廷においても述べており、しかも犯行当夜は日頃あまり口にしない酒や焼酎を飲んでいたのである。一方被告人の本件自白によれば、被害者は被告人から姦淫された事実がないのに(このことは前掲正木新樹作成の鑑定書の記載から推認し得る。)「被告人が酔つた勢で無理に姦淫した」ことを口実として「その代りとして貰う」と言い張り、被告人の酔いに乗じて金を捲き上げようとする狡猾な、物慾に駆られた態度を示して被告人にとりあわず背を向けて寝てしまつた(この間の被害者の態度、同女との話のやりとりについては、被告人の自白を除いて他にこれを認むべき証拠はないけれども、証人中島巴、金子友平の証人尋問調書、証人原崎きぬの当公廷における供述、田中あきの検察官に対する供述調書(甲一〇三)によれば、被害者は昭和一二年頃夫に死別して以来、人里離れた判示一軒家に住み、行商等をして三人の子女を育てあげた者であつて、金銭問題についてはかなり気の強い性格であつたことが認められるし、このことに被害者の年令、犯行現場の状況特に被害者が抵抗した形跡のないこと等を考え合わせると、被告人自白の如き被害者の態度はこれを推認するに難くない。)というのであるから、前認定のように激し易い性格と当時の右のような精神状態にあつた被告人として、被害者の右態度に憤激し、とつさに目の前にあつたなたを振つて被害者を斬りつけ、更に判示のように顔見知りの関係上犯行の発覚をおそれ更に数回斬りつけたとしても聊かも異とするに足りない。

なお、被害者がふとんの上で惨殺されていた状況だけからみると、被告人が殺人、強盗、強姦等の目的でひそかに侵入したのではないかと憶測する余地もないではないが、被害者が被告人から殺害されるような怨恨関係のあつたことを認める資料がない上に、室内のタンスの抽斗が不自然にかき廻されているほか、物色の形跡がないのは勿論、盗難の被害も認められないこと、障子の破損状況が極めて不自然であること、被害者が格別抵抗した形跡がないこと、姦淫を証する事実のないこと、前述のように被告人が「やえん茶屋」を出てから被害者が死亡する時刻までの間に三時間以上の余裕があるのに、その間被告人が他に立ち寄つたことを認める資料がないこと等を考え合わせると、右のように考えることは合理的ではなく、かえつて被害者が手拭様のものを下げていたこと、簡単服を着ていたこと、炉の上にランプのあつたこと、被害者がとうもろこしを食べたことを被告人が知つており、しかも被告人が以前被害者と二、三回話し合つたことのある事実等からみて、被告人の供述するように被害者の案内で被害者方に入つたと認めるのが相当である。

(六) 次に、犯行直後の行動について、被告人は「締まつている南側の障子を肩で打ち破り、地下足袋を履いて後ずさりの恰好でぬれえんを降り、居宅の裏から東に廻つて山羊小屋の前に置いた自転車を押し、前記旧道を西方に進み大石附近まで行つたが、道が狭く暗いので引き返した。そして柿の木の所まで戻り、道の北側の沢の樋で水を飲んだが、なたを忘れたことに気付き、居宅西側の桑畑を通つて裏側に廻り、土間らしい所の叺に一旦腰を下して休んだ後、先に出たぬれえんから八畳間に入り、物盗りを偽装するため、タンスの抽斗を二つ、三つ開けて中の衣類等を少し持ち上げて置き、小ランプはつけたままでなたを持つて外へ出た。再び桑畑を通つて道に出た上、国道を通つて帰途についたが、途中川中温泉入口の近くの道路上にトラックが二台停めてあり、その一台には<五>のマークがついていた。」と本件を自白している。

右供述のうち、障子の破損状況、タンスの状況、山羊小屋、沢と樋、柿の木、桑畑、裏側の土間等の存在及び位置については、前記(三)において認定したとおりである。「川原畑殺人事件現場附近において自転車の輪跡発見について」と題する書面及び添付の図面(甲一八)、「現場附近において発見された自転車の輪跡についての捜査」と題する書面及び添付の図面(甲一九)、「自転車の輪跡について」と題する書面(甲二〇)、「川原畑部落の自転車の調査について」と題する書面(甲二一)、本多昭治(甲五五)、鳥山正十郎(甲九八)の各司法警察員に対する供述調書や「殺人被疑者鳥山邦允の使用した自転車の写真撮影について」と題する書面(甲一三三)、証人中島巴の証人尋問調書、受命裁判官の検証調書二通の各記載によると、八月二九日被告人は六月頃購入したばかりの新しい丸石号自転車に乗つていたこと(この点は被告人も当公廷において認めている。)、八月三〇日夜本件現場に警察官が急行した際、被害者方から西方旧道上大石附近までの間数個所に丸石自転車と同型の新しいタイヤの輪跡があつたこと、右旧道は現在は国道から東端において国鉄長野原線の鉄道路線のどてをのぼり入つた山道で、道幅が狭く且つ勾配もあるため人車の往来は少く、その道を利用するのは旧道西端の川原畑部落の者が大部分で一般の交通の用には殆んど供せられていないこと、前記分岐点から右部落までの間旧道に沿う人家は被害者方一軒のみでしかも吾妻渓谷北側の断崖に立ち裏側(南側に当る)は余地も殆どないこと、同部落の者のうちには当時丸石号の新車を所有する者はなかつたことが各認められ、しかも前記認定のように二九日夜相当量の降雨のあつたことを考え合わせると、被告人が当夜遅く被害者方から大石附近まで丸石号新車を押しながら西進した旨の自白は、高度の真実性がある。更に被告人がぬれえんから出入し、桑畑を二度も通つたことについては、被害者方ぬれえんの下に二個(これは地下足袋の爪先が屋内の方向を向いている。)、その西方にある窓下に一個、西方桑畑内に往復したと思われる五個の地下足袋の跡があること(以上は前掲司法警察員の検証調書によつて認められる。)と全く符合する。又前掲司法警察員の検証調書及び証人原崎きぬの当公廷における供述によれば、被害者方屋内は他に物色された形跡がないのに、タンスの抽斗が二つ開かれたままで内容の衣類が若干持ち上げられていたこと、そして現金、物品等の盗難にあつた形跡のないこと、小ランプの中には石油が全く残つていないことが認められ、又富沢五郎の司法巡査に対する供述調書(甲八〇)によると、同人は八月二九日午後七時半頃から翌朝まで自宅である吾妻郡吾妻町大字松谷八六二番地前国道上即ち川中温泉入口近くの国道に二台のトラック(そのうち一台には<五>のマークが入つている。)を停めておいたことが認められ、これ等の事実はいずれも被告人の前記自白を裏付けるものである。

(七) 以上検討したように、被告人の本件自白は極めて細部の点にわたつて客観的状況と符合し、その供述内容も整然として一貫し不自然な点はなく、特に殺害の手段方法、家屋の構造、屋内の状況等については詳細且つ正確であり、これに加えて、(イ)被告人は取調官に対し当初から本件犯行を認めていてその間一回たりともこれを否認した形跡がなく、本件第一回公判期日においても殺意の点を除き本件公訴事実を認めていること、(ロ)被告人には八月二九日を境としてかなり不自然な行動があらわれていること、すなわち八月二九日付で両親あてにもう二度と家には帰らない旨の遺書(甲八七)を残し、八月三〇日早朝大阪方面に向つたこと。数日後帰宅したが、九月一〇頃犯行現場に近い知合の田中あきを訪れて事件の捜査状況に関する噂を色々と尋ね異常な関心を示していること、九月二三日頃被告人は手紙や書類等を一切焼却して、同月末頃判示第二の詐取した現金を持ち田中あき及びその子供を伴つて温泉に遊んだ上、家人には一切連絡せずに岐阜県中津川に至り飯場に入つて土工をしていたこと等を合わせ考慮するならば、被告人の本件自白は真実性ありと認めるを相当とする。

(八) 被告人は、当公廷において、本件自白は一〇月一四日逮捕されるまでの間得た新聞記事、風評による知識、取調官の暗示等に基いて自ら推理を加え創作したものであると主張する。なるほど、証人田中あきの証人尋問調書、同人の検察官に対する供述調書(甲一〇三)、被告人の司法警察員に対する昭和三三年一月二八日付供述調書(甲一五〇)によれば、事件発生後被告人が新聞記事や田中あきから聞いた噂等によつて相当事件についての知識を得たことを肯認することができる。しかし、前段までに認定した如く、被告人の自白は詳細的確であつて当時の客観的状況と一致し到底被告人の単なる推理あるいは創作のみによつてはよく為し得るところではない。

(九) 弁護人は、事件発生当時被告人が竹切りに使用していたなたは昭和三四年二月頃自宅から発見されておりこれには血液等の痕跡は無いから、被告人が右なたを以て殺害しその直後吾妻渓谷に投棄したという自白は信ずるに足らず、と主張する。なるほど弁護人提出にかかるなた(昭和三四年領第一一号の二三)には血痕等が附着している形跡はなく、又証人鳥山こま、唐沢光吉は当公廷において「昭和三四年二月二八日頃右なたが被告人方台所に積んであつた小麦俵の中から発見された。」旨供述しているけれども、かかるなたが穀物小麦と共に俵に入れられること自体疑わしいのみならず、証人鳥山こまの供述によると右小麦俵は七月頃俵装して以来昭和三四年二月頃までこれを解いたことがないというのであるから、事件当時右なたを被告人が携行使用していたことを認める余地はなく、これに加えて証人中島幸一の当公廷における供述によれば、右なたには「正行特撰」の銘があるところ、この刻銘のなたは本件発生後の九月頃から売り出したものであること(証人榎正雄の証人尋問調書のうち、正行特撰は昭和三三年春頃から売り始めた旨の供述部分は、製造卸主である中島幸一の証言と対比して措信できない。)が認められるから、弁護人の主張は排斥を免れない。

三、アリバイについて

被告人は当公廷において八月二九日は夜八時半頃自宅附近の叔父唐沢本雄宅を訪ね、入浴した後竹の斡旋のことについて同人と話し、午後一〇時半ないし一一時頃には帰宅して就寝したから、本件発生当時犯行現場にはいなかつた旨弁解し、証人鳥山九八郎、同鳥山こまの各証人尋問調書及び証人鳥山こま、同鳥山勇の当公廷における供述によれば、右弁解にそう供述部分がある。すなわち証人鳥山九八郎の供述の要旨は、「被告人は、八月二九日は朝から夕方まで自宅で肥桶(これは弟京の未払賃金に代えて日本通信工業株式会社から八月二八日頃受け取り、自宅に運んだ様である。)を造る仕事をしていたが、夜湯を貰いに行くと言つて外出し、一〇時頃帰宅した。」といい、証人鳥山こまは、「被告人は夕方まで自宅で肥桶造りをしていたが、家族と共に夕飯を食べた後唐沢本雄宅へ竹の件で出かけた。その後証人は外出し一〇時半頃帰宅したところ、被告人は既に就寝していた。」というのである。ところが、(イ)事件発生後僅か四〇日後である(一〇月九日付の鳥山九八郎の司法巡査に対する供述調書(甲一二八)によると、被告人は八月二九日にはなたを持ち自転車に乗つて原町方面に出かけ午後八時頃帰宅した旨の供述があり、前認定の如く、被告人は竹買のため原町方面に出かけ、同日午後七時四、五〇分頃「やえん茶屋」にいたことは明らかである上に、青木正一(甲一二九)、久米誠一(甲一三七)の検察官に対する供述調書によると、被告人方に日本通信工業株式会社から樽を運んだのは、九月四、五日以降であることが認められ、(ロ)被告人が当夜唐沢本雄方を訪ね午後一〇時頃までいたかどうかにつき、証人唐沢本雄の証人尋問調書によると、右事実を肯定する趣旨の供述をしていたのであるが、第九回公判において右供述は錯誤に基く供述であつて、八月二九日夜被告人が証人方に来た事実は全くない旨供述するに至り(押収してある手帳(昭和三四年証第一一号の二一)中の八月二九日夕方被告人が来て午後一〇時頃帰宅した旨の記載は、鑑定人松土孝作成の鑑定書、証人唐沢本雄の当公廷における供述に照らし、後日書き足した虚偽の記載であることが明らかである。)唐沢愛吉の検察官に対する供述調書(甲一三五)にもこれと符合する供述記載がある。このように証人鳥山九八郎、同鳥山こまの前記供述はその重要な部分においていずれも真実に反するものであり、しかも右両名が被告人の父母という身分関係を有し、通常公正な供述を期待できない立場にあることを考え合わせると、被告人が同夜一〇時ないし一〇時半頃在宅していた旨の主張も結局措信できない。次に証人鳥山勇の当公廷の供述によれば「八月二九日夜一一時頃帰宅したら被告人が寝床に横になつていた。」というのであるか、右供述はその供述全体からみて時間の点について明確な根拠を有するものとは認められない上に、同人も被告人の弟という身分関係を有することにかんがみれば信用できないものである。

四、補強証拠について

最後に弁護人は、仮りに被告人の本件自白に真実性があるとしても右自白を裏付けるに足る補強証拠がないと主張する。しかし既に前記第一第二の二において詳細に摘示した如く被告人の本件自白を裏付け保障するに足る補強証拠は数多存在することが明らかである。

よつて主文のとおり利決する。

(裁判官 大内弥介 中沢日出国 佐々木泉)

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